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うどんの花里は、滋賀県高島市新旭町の讃岐うどん店です。

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〒520-1503 滋賀県高島市新旭町深溝1435

石臼挽き小麦粉を炒った独自の味。うどんの花里
うどん


うどんの花里は、滋賀県高島市新旭町の讃岐うどん店です。石臼挽きさぬきの夢小麦粉を炒ることによって風味、香ばしさを感じるうどんを提供しています。

子育て 乳児期のうどんづくりから発達を考える

サルからヒトへの移行期(岡崎英治)

 サルという言葉はエンゲルスが「サルが人間になるについての労働の役割」で用いています。これから述べることは、サルというよりチンパンジーのとしてとらえてください。


 サルからヒトへの準備期・・・チンパンジーもできて人間もできる獲得期(量)

 チンパンジーも寝返りをしようとして繰り返し、乳児も繰り返して、いつの間にか寝返りを獲得します。繰り返すことによって、出来なかったことが出来るようになります。ところがある極限でチンパンジーはできなくて人はできるようになるということがあります。例えば「歩行」です。人は1歳ぐらいになると二足歩行を獲得します。でも、チンパンジーには難しいのです。量的に繰り返すのですが、人はできてもチンパンジーには出来ないことがあるのです。また、逆にチンパンジーに出来て、人はできないものがあるのです。木登りなんかチンパンジーのほうが、はるかに上手なのです。量的に繰り返さなければ忘れ去ってしまったり、後退してしまったりするのかもわかりません。私たちは繰り返して量を重ねることが大切なのでしょう。エンピツを持っていた時中指にエンピツを持ちすぎてコブが出来たことを覚えています。でも、今やパソコン時代キーボードをたたいて文章を綴る時代なのです。エンピツを持っていた時のコブが消えています。繰り返し繰り返し、それが世代をまたがって伝えられてきたのです。人は類人猿からヒトへと体系も変化してきたのです。チンパンジーは木に登り、人は二足歩行を繰り返してきました。量的に繰り返して人は人らしくなり、チンパンジーはチンパンジーらしくなってきたのです。産まれて、数ヶ月はチンパンジーも人間の乳児も,繰り返してできることをします。この量的に繰り返す時期を私はサルからヒトへの準備期としました。


 移行期・・・人間にしか出来ないものの獲得期(質)

 チンパンジーとは違う道を歩み始めた人間。チンパンジーには出来ないけれども、人間には出来ることがあります。量的に繰り返して獲得したものとは指差し、二足歩行、言葉、道具使用などあります。これらはチンパンジーには出来ないけれども人間には出来るようになったのです。このことを私は移行期と称しています。二足歩行、言葉、道具を使用して脳が大きくなり、言葉や道具を使用し、これらが連関されることによって、より発達してきました。人間にしか出来ないものを獲得し、それらを使用して、より複雑なものを獲得してきました。これらの時期を私はサルからヒトへの移行期としてとらえています。

 

乳児期(産まれて二足歩行獲得前までの時期)

 

「サルからヒトへの準備期1」  (目線の共有と泣く・笑う行為)

 産まれる前は母親の胎内で育ち、産まれ出てくると、へその緒を切断して一人の新生児が誕生です。胎内のときから目や口が形としてできていたのです。つまり、胎児の時期から、一人の人間として産まれる準備をしていたとも思えます。 
生後1日目生後2日目生後3日目生後10日目
 左から生後1日目 生後2日目  生後3日目   生後10日目

 この写真は笑っています。でも、どうして笑っているのか・・・。わかりません。
 しかし、この新生児のお母さんは読み取ったのです。「きっと、オシッコをしている。」と・・・。当たるあたらないは問題ではないのです。でも、当たってるかな。その状況で、お母さんと新生児との関係で感じるものがあったということが大事だと考えるのです。まさしく、融合感です。おしっこをしているかどうかが問題でなく、その子に対して融合しようとする姿勢がすばらしいと思います。「子育て」は、これだから楽しいのです。まだ、仮定ですが「志向性」というものが「融合」というところのものと、大きく関与しているのではと考えているのです。
 生後2日目、10日目の笑いは生理的な微笑といわれるものです。産まれるとお母さんも、きっと目を見つめるように新生児を見ると思います。人間は表情豊かです。目や口元、体全体から表現する力をもって産まれてきます。新生児は不思議な力を持っている感じで笑ったり、模倣で舌を出したりします。これも1ヶ月ぐらいになると消えてしまいます。これが新生児の共鳴動作といわれるものです。大切なことは目と目を合わせて、肌で感じ、声をかけてあげるということでしょう。新生児だたら、わからないだろうというのでなく、人としてのかかわりからくるものが「子育て」の根本ではないでしょうか。私は、この関係を融合感としています。お互いが相互主体的に、まるで溶け合うような世界があるということです。例えば、目の見えない人が杖をついて歩くとき、杖と見えない人が、その場で融合されて、まるで目が見えているように歩くときです。また、車に乗って、狭い道を進むときミラーで見て運転します。このミラーと融合すれば、まるで車が自分の体のように思えるのです。これらを私は「身体とモノとの融合感」といっています。このような母親と乳児との融合感が大切だと考えています。



生後20日目生後20日目
 左から生後20日目 生後20日目


 生後20日目になると、しっかりとした目で見つめます。生後1日目からすれば、ずいぶんとしっかりとしてきます。確実に、たった20日間で目が、しっかりして、見つめながら外界へ表現しているように思えます。「見る側」と「見られる側」、このことは分けることは出来ず、外界と自分とのやり取りです。目と目をあわすことの大切さがわかります。「見る」と「見られる」の相互の関係から「見つめあい」という霊長類が獲得してきた力です。


なかなか目が開かなかった子
乳児


帝王切開で予定日より18日早く産まれる


 生後1週間(産まれてから2,3回目を開けただけ)
 何回か目を開けてくれているので、量を繰り返して、目があく機会も増えてくると感じました。
たとえ目が開かなくても触れると感じることができるので、目が開かなければ、それ以外のことを考え、スキンシップが大切だと思いました。
 つまり、この「サルからヒトへの準備期1」においては「目をあわす」、あるいは「触れる」ということが大切なこととわかりました。
目と目を見つめる。触れ合うという対人間との関わり合いがもっとも大事なことです。
やがて、二週間後には、目を開き、写真のように、母親が下を出すと新生児がまねています。見つめている証拠ではないでしょうか。生まれた乳児は何回も量的に繰り返す力を持っているのでしょう。自らの発する力を持って生まれてくる感じです。

 勿論、声かけもあるでしょう。目が見えなくても、人間は目を見ながら伝えようとします。声の聞こえる方向を感じるのかもわかりません。「見る-見られる」、「触れる-触れられる」、「話す-聴く」と、お互いが交通し合う世界をつくるのです。この「交通」(コミュニケーション)が大切だとも思います。

乳児の模倣


14日目ぐらい 母親が舌を出すと
新生児も舌を出す(アンドリュー・メルツォフ)

「もって産まれた自らの発する力」を大切にして、目と目を合わし、肌と肌をふれあいながら、より自らの発する力を獲得します。このことを考えてみると、新生児は産まれながらに発する力を、自らが用いて目で対象物を見ようとしています。肌で感じようとして、耳で聞き、環境に対面しています。呼吸を意識せずに繰り返し、酸素を吸って二酸化炭素を出しています。体でエネルギーをつくり、二酸化炭素を出すということは酸素を二酸化炭素につくり変えているのです。自然を変革して、自らもエネルギーをつくり、変革しているのです。私たちは、環境をつくり変え、自らも変革していく生き物なのでしょう。目が見えなくても、身体が不自由であっても、誰もが環境を変革し、自らも変革しています。生きるということの、すばらしさがあります。

 新生児の関わる世界「見る―見られる」「触れる―触れられる」=「獲得した自らの発する力」

「獲得した自らの発する力」を用いて、新生児の交わる世界の内で環境を変革し、自らをも変革しています。そして、より「獲得した自らの発する力」を用いるのです。量を繰り返し、目が点から線、面へと見つめるように質的に変化していきます。また発達の連関をもって首が座ってきます。量的に「見つめ=見つめられ」ながら、首をしっかり自らの力で支えようとするのでしょう。あたかも繰り返しのようですが、まるで同じことの繰り返しのようですが、環境を変革し、自らも変革していく「場」があるのだと私は思います。

 霊長類は向かい合って育ち、人も系統的に目線を合わせてきました。乳児は「見る―見られる」や「触れる―触れられる」と外界へアプローチをしながら、自らの獲得した「発する力」が生まれるのでしょう。つまり、人とは外界を変革し、自らも変革していく生き物だということだと私は思います。私は「発達とは外界を変革し、自らも変革して発する力を築くことが発達の道筋だ」と考えます。

 斎藤公子氏の「生物進化発展の法則」における「金魚運動」があります。人間は魚類から進化してきたという説から背骨の運動である金魚運動を河添邦俊氏から学ばれ取り入れてきたそうです。人間にとって背骨が大切であり、この運動を2ヶ月ごろの乳児からしています。


乳児の目


3ヶ月過ぎ、オモチャをじっと見つめる目。


乳児の手


 対象物を目で見るのですが、手が、そこへむきません。乳児を持ったお母さんだと、あっ、こんな時期があったと思われるでしょう。もどかしい感じです。それが初めて手を対象物に触れるのです。オモチャに手を持っていこうとする自らの発する力。「リーチング」は外界のものを我が手でさわるのです。こんな、すばらしいことがあるでしょうか。人は、このように自らが蓄えた力を発していきます。それが外界をつくり変えるという労働を獲得するのでしょう。外界へと人は向かい外界をつくり変えます。と同時に外界から人はつくられていきます。この、すばらしい「自らの発する力」を私は大切に思っています。
 目が見える見えないということより、外界と、どのように対面するかが生き方として大事なことなのだと確信しています。「リーチング」はひとつの志向性を持っているものだと思います。目で見て「触りたい」という気持ちが手を動かしたのだと思います。ここで「思います」という言葉で表現しましたが、私は今回、この「志向性」というものを考えてみたいので、定かではないというところで「思う」という言葉を使用させていただきます。
 このリーチングという言葉で、どうしても思い出してしまうことがあります。斎藤公子氏は難しい言葉を使わないで説明しなさいと私にいわれました。斎藤氏は、亡くなられるまで保育の実践家でした。私は足元にも及ばないのですが、うどん屋であっても、保育の実践は続けようと思っています。

 「リーチング」を述べましたが、この対象物へ手を差し伸べるということを「志向性」として捉え考えてみます。産まれると「目で見る−見られる」のは目が、見つめるものへ向っているということではないでしょうか。先ほどの「手を差し伸べる」ということと「目で見つめる」ということや首を起こす(首の座り)ということは、「何らかの志向性」が、その「場」において醸し出されていたということではないでしょうか。そう思えば、「リーチング」は、確かに手で差し伸べる行為であるのですが、見つめるということや首を起こすということも共通項があるのではないでしょうか。発達は連関して、多肢に渡って織りなされた志向性が「場」において表現されたものではないでしょうか。

 新生児期は呼吸をしながら口から酸素を吸い込み、二酸化炭素を出しています。母乳を飲み、胃や腸を通り、排泄されます。口の周り、目の周り、内臓の働きにより、いろいろな力が蓄えられていく気がします。自らの力で環境をつくりかえています。乳児期の前半は、このように体内における発達がめまぐるしい時期だと感じています。自らの力で自分の体をつくっています。変革しようと環境をつくりかえています。

「サルからヒトへの準備期2」  (手・足の把握反射消失へ)

 

手の把握反射 約6ヶ月頃消失

後ろバイは、足の指を使っていることがわかります。また、へそを中心にして回転するときは、必ずと言っていいほど、足の指を使っています。この時期に、後ろバイ、体のへそを中心にして回転することは大切な動作です。

 人は昔、木の上で生活をしていたのでしょう。ですから手や足で木の枝を握らずにはいられなかったのかもわかりません。乳児は手の平に枝が触れると反射的に枝を握ます。これも6ヶ月ごろ消えていきます。這い這いをやりだすとと手の把握反射は不適応動作として消えていき、環境に適応し、人は変革しようとします。

斎藤公子氏の「どんぐりの運動」は、足の指を使う大切なリズム運動です。実に、この時期に必要なことがリズム運動でいかされているのです。

 後ろバイは、足の指を使っていることがわかります。また、へそを中心にして回転するときは、必ずと言っていいほど、足の指を使っています。この時期に、後ろバイ、体のへそを中心にして回転することは大切な動作です。



乳児寝返り

6ヶ月前の子がオモチャで遊んでいます。手指の操作がここまで起用になっています。


乳児5,6ヶ月

手や足の指を、思いっきり働かせて、外界を感じようとしている感じが見られます。


ハイハイ

きれいな体の起こしは目で見つめることから発しているような写真です。見つめる目と握る手が印象的です。


ハイハイ

おへそを中心にして動き、右足の親指を使っていることはわかります。


おもちゃに手を伸ばす

左手の伸ばしと、左足の指で蹴ろうとしています。


足の指

 もしかして、近くのカバンに手をやって、遠くのオモチャを取ろうとしていたかも・・・(これは、推測でわかりません)。本来はカバンに目がいき、カバンに手が届いたときにオモチャが見えたというのが筋だと思います。まだ、道具の使用まで達していないと思うからです。


指を立てる

右足の親指を立てているところです。


足の親指

このきれいな指の立て方が二足歩行の土台となるのでしょう。

  乳児は目で見つめ、手を伸ばし、足で蹴って移動しようとします。ある対象物を求めて・・・。ただ動いているというものではないことがわかります。「志向性」というものが顔をのぞかせているような気がします。目と手と足を使って体を移動させようとして、このとき、対象物を見つめて頭を起こし、胸を起こして移動しようとしています。そして、背骨をくねらせているのです。背骨がまっすぐでは、人は移動しにくいのでしょう。このことからも、背骨が大切なことがわかります。対象物を目で見て、手、足、体全体で獲得しようとしています。「志向性」が体全体を使って複雑な動きをコントロールしながら対象物に向っているような気がします。

 座位について考えてみたいと思います。乳児を大人が早く椅子などに座らせたいと思うのはどうでしょうか。自分の体を支えるには重力に対して、自らの力で維持しなければなりません。それが出来ないときに無理やり座位にさせるのはどうでしょうか。頭が前に垂れ下がり、体が前のめりになってきます。「もう、この子は駄目ね。しっかりしなさい。」なんていうのはおかしいですよね。こんな状態を続けると背骨や骨盤はどうなるのでしょうか。

 能動的座位(自ら座る)と受動的座位(他者により座らせられる)とは違います。これを「志向性」で考えれば、母親のさせたいという気持ちから発するのが「受動的座位」であり、「能動的座位」は子ども自らの気持ちから、湧き出た行動です。時々、保育の場面にはこういうことが見受けられるのです。母親や保育者は、もうこの子は、この月齢・年齢だから、これくらいできるだろうという発達の先読みのようなものがあるのだと思います。ヴィゴーッキーの「最近接発達領域」という言葉を勘違いされている方々が多いということだと思います。決して、次への最近の発達段階へではないはずです。お兄さんたちが援助してできるような「明日にでも、あるいは、今にでも出来ること」が、ヴィゴーッキーの「最近接発達領域」だと私は考えます。

 チンパンジーも座りますが、人間も座ります。まあ、人間のほうが、量的に多く、それ故、安定した座り方です。おまけに人間は椅子というものを上手に使います。チンパンジーは、ここで差がついてしまうのではないでしょうか。ヒトは二足歩行をすることによって、手が自由になりました。現代では座ることによって手が自由になってきたとも感じます。座ることで手が自由になり、いろいろな経験も豊富になるのかもわかりません。ここで、ひとつ私は問題を感ぜずにはいられません。それは背骨です。より、しっかりとした背骨をつくろうとすれば、背骨をくねらせる運動が大切だと感じるからです。早く座らせられた乳児はまだ、座れないのに座らせられ、おまけに這い這いをしたい時期に、這い這いをしなくなるということです。時には、座りながら移動するということを覚える子もいます。このことは大人側、外界から、その子をつくり変えてしまったのです。本来、自ら発する力により発達しようという道筋を変えてしまったのです。「大人の罪は重い」というしかありません。早く歩いて欲しいとか、座らせて食べさせたいなど、次への見通しを持って座らせてしまうのです。この時期にとって、這い這いがどれだけ大切かを知りながらも、そうさせているのが現状です。
 保育園でも食事のときに、このような場面をみかけるのです。もちろん、そんな保育園ばかりではありませんが、ひとりの保育者に3人くらいの乳児を食べさせるには、いろいろ考えて、そうさせてしまうのが保育園です。自らの発する力を大切にすることより、大人側(外界側)からの働きかけが強くなってくる時期なのかもわかりません。
 新生児のときに「見るー見られる」「触れるー触れられる」という相互主体性の世界を感じていたにもかかわらず、「座るー座らせる」という場面では大人側からの力が強くなっているのではないでしょうか。時間に追われたり、やりやすさから、主体が大人側になってしまう場面が多くなるのではないでしょうか。きれいな言葉で言えば、「次への見通し」を考えて大人側からしてあげるという「主体の逆転」が見られるように感じるのです。

「サルからヒトへの準備期3」  (這い這い獲得期)

 
 両棲類の這い這いを想像してもらいたいのですが、背骨をくねくねと左右に曲げて、あたかも魚のように進みます。魚が陸へと生活を移し、活動範囲を拡げたような両棲類ですが、魚だった時のように背骨をくねらせて進みます。乳児は寝返りをすると、胸を起こし、へそを中心にして回転したり、後ろバイをしたりします。後ろバイになるには、それなりの理由があると思います。志向的には前へ向おうとするのですが、体はそれとは反対に後ろへ後退します。この時期は腕や手のほうを足より、多く使っています。4ヶ月ごろのリーチングをしたり、手指で外界のものをさわったり、床から手を伸ばして胸を上げたり、手の使用が活発です。足を使い出し始め、寝返りをやりだしたころです。この時期独活の力が強いのと、身体を腕をのばしてあげ、身体を落として進もうとします。のばしたとき腕で床を押している形になり、そのまま身体を落とすので下るのだと私は思っています。このときに大事なことは、こうしたときは足の指を立てているということです。この足の指を立てているということが、次へのステップにつながるのだと考えています。
 やがて、前へと進み、ハイハイを獲得していきます。手の5本指は握ったり、開いたり、足の指は床を蹴ろうと試みて親指を使います。この時期に肘を使って進んだりする子がいます。また、座ることを覚えた子はお尻で座りながら進もうとします。人間の本来の姿はどうなのでしょうか。背骨をくねらせて手足を使って進む這い這いが、魚類から両棲類への進化の道筋だと私は思うのですが・・・。這い這いの時期は、背骨を使っているのだと思います。そして、前へと進もうとする志向性を、手の指や足の指が感じているのではないでしょうか。手の指は握ったり、開いたり、足の指は扇状に拡げたり、親指を立てたり・・・。まるで触覚のような動きです。

 9ヶ月ごろ、ハイハイをして移動します。自分から発現する力で手、足、背骨を使って前へと進もうとします。チンパンジーも人間も、こうして移動するのです。人間だけがハイハイをするのではありません。このことは以前から、つまり、両棲類の時代から、そうして繰り返してきました。私たちは現代に生きているだけで、昔のことは想像に過ぎません。この原発で活断層かどうかを地層で見て判断していますね。私たちは何億万年前から、つくられてきたのだともいえるのでしょう。考えれば類人猿より、前の時代からハイハイをしていたのです。人間のみがなすハイハイではありません。人が誕生して始めたというものでなく歴史を積み重ねて準備してきた結果なのです。
 体を支えるのに大切なものは背骨だと思います。背骨をつくる這い這いを私たちは座位を、早く獲得させて背骨を、しっかりと形作る前に、歩もうとしているかのようです。そして、足の指で床を蹴ることが歩くことにつながるということを忘れてはいけないと私は思います。

抗重力筋について
 地球には重力が働いています。りんごは下に落ちるのです。乳児も重力に従い、寝かされた状態で呼吸をして生きています。うつ伏せになって、首を上げる力を獲得するのは、約2ヶ月ごろです。首を上げるという行為は地球の重力に逆らっているのです。りんごのように落ちるだけではないのです。重力に対しての力を抗重力といいます。人は、筋力によって首を上げるのです。このことを「首が座る」といわれます。抱っこをすると、首が垂れ下がってしまっていたのが、自分の力で頭を起こし、お母さんも抱きやすくなったと感じます。
 やがて、4ヶ月ごろ、リーチングによって手を対象物へ向いさわろうとします。5,6ヶ月の寝返りも重力に逆らって仰向けからうつ伏せ、うつ伏せから仰向けと移動します。人は重力に抵抗しながら、自らの変革を試みているようです。チンパンジーもヒトも、生まれれば、ハイハイの時期である両棲類から霊長類の時期へ、わずかな時間で、急激な変わりようをするのです。このわずかな時間の中で両棲類から霊長類へと飛躍するという時期だと思います。

 魚類の時代は背骨をくねらせて、ヒレや尾ひれで進んでいました。それが、地上に出て両棲類の生活を獲得しました。ヒレが足や手のようになり、背骨をくねらせてハイハイをします。犬、猫、ライオンたちはよつばいで駆け回り、霊長類から人間になると二足歩行します。なんと魚類からヒトといわれるまでを人間は約1年間で獲得していくのです。まあ、お早いことじゃあ、あーりませんか。
 地球には重力が働いていますから、その重力に対して身体でバランスをとります。教えられるということでなく、本当に不思議な力ですなァ。私はこの力を自らが発する力と言っています。
 乳児は歩くまでに、両棲類のハイハイ、ムツバイ(手の平、膝、足の指)、ヨツバイ(手のひら、足の指)と身体を床から離して進むために抵抗を少なくしていきます。やがては二足歩行を獲得します。数億年かけて獲得してきた進化を、乳児は、たった1年ぐらいで獲得するなんて・・・。

 4ヶ月ごろから手を対象物に伸ばして手指で探り、寝返りやハイハイの時期は足の指で蹴って進もうとします。この大切な、数億年から考えるとわずかな時間で外界と手指や足の指で交通するのです。この時期に動きにくい服装、靴下などしていると、どうでしょうか。乳児は確かに可愛いです。でも、人形ではないのです。出来る限り、外界と交通させてあげることを考えてあげることが大切だと私は思っています。


「サルからヒトへの準備期4」  (座位獲得期)


 ヒトは二足歩行確立から手が自由になりました。ものを持って歩いたり、道具を使いだしました。時間が流れ、時代が流れ、ヒトは環境に適応しようと試みてきたと思います。狩り、農耕をするために、移動したり、その場所にとどまったりしながら集落をつくり、社会を築き始めました。長い歴史の中でヒトが創りだしたものです。今私たちがいるのは、その延長に過ぎないのです。歴史的−社会的の過程において、座ることで、手が自由になり手指の操作が出来るようにもなりました。
     
 座位は手指の操作を早くさせるためのものではありません。体を支えている背骨が、しっかりしないといけない時期なので、なるべく自分から座位を獲得させるということが大切だと感じます。座位の獲得とは這い這いから座位へ、また座位から這い這いへと移れるようになって、座位の獲得といえるのではないでしょうか。自らの力で座位獲得ができる環境をつくってあげるべきだと思います。椅子に座らせるのが座位の獲得ではありません。つかまり立ちもできないのに、椅子に座ることは一人で出来ないはずです。椅子に座っているのは、他者が座らせたということではないでしょうか。椅子に座って頭が下へ垂れる場合ははやいということです。しっかりとした背骨になって座るのがいいと私は考えます。

小麦粉遊びからうどんづくりへ


小麦粉と親しむ

 この時期になると座位を獲得し、小麦粉で遊んだりできます。アレルギーがあるかもわかりませんので要注意です。うどんを作るというわけには行きませんが、感触を味わいさせたいですね。小麦粉に水を加えていきます。小麦粉は粉状から、ドロドロ状になっていきます。水を入れることでの変化を感じて欲しいです。水はこれから大きくなる時期での、一番のお友だちと言っていいと思います。水が子どもを遊ばせ育ててくれるのです。そのなかでうどんづくりも子どもにとって楽しい遊びのひとつです。
 小麦粉粘土といわれている遊びですが、小麦粉と水の比率によって、全く違います。そんな、違いを見せてあげて、触らせてあげてみてはどうでしょうか。うどんづくりは、ここから始まるのだと思っています。

 

「サルからヒトへの移行期1」  (三項関係期)



 今までは「サルからヒトへの準備期」という言葉で述べてきました。霊長類も出来るところを私は準備期としています。移行期は人間のみが獲得したものです。「サルからヒトへの移行期」と私は記しています。

 余談ですが落語で「七度狐」があります。二人の伊勢参りの男が道に迷って、尼寺を見かけます。尼寺を指で指し示すところです。
「おいっ、あれ見てみい。」
「どれですか」
「あれやがな。俺の指先。」
「爪が伸びてますねぇ。」
「爪の先や」
「アカがたまってる。」
「どういうたら、わかんねん。」
と、ここまでは霊長類もできます。謂わば「準備期」です。この後・・・。
「指のさす方向や。明かりがチラチラと見えるやろうが。」
「ああっ、明かりですか。明かりは見えますけど。」
「何が見えんのや」
「チラチラが。」
「そんなんが見えるかいな。」
というところです。人間は指の指し示し方向を見るのです。この指差しが「移行期」の段階といえます。


 人と人とが向き合って、あるいは人と物とが向き合って関係を結ぶことを二項関係といいます。二項関係はチンパンジーでも出来るといわれますが、三項関係になると難しくなります。三項関係とは人と物と人とが交じり合って関係を結ぶことをいいます。
 チャン・デュク・タオ氏の「言語と意識の起源」という書物にゴリラは指さしをしないで、ゴリラは人の手をとって対象物のところへ誘導するそうです(クレーン現象・マジックハンド)。明和政子氏が社会的参照に代表されるような三項関係にもとづくコミュニケーションは、どうやらヒトだけが独自におこなうものだと述べられています。チンパンジーは三項関係が難しいということのようです。この時期を人として大切にしたいと思い「サルからヒトへの移行期1」としました。
サルからヒトへの準備期においてはチンパンジーやゴリラもすることがあるのですが、サルからヒトへの移行期は人間特有のもので、人間のみが歴史的−社会的な獲得によって、もたらしたものではないかと三項関係を移行期と考えています。


「飼育下」で育ったチンパンジーと「野生下」で育ったチンパンジーとは、ふるまいが違うそうです。「飼育下」のチンパンジーたちは「人間っぽい」らしいです 。指さしでも「飼育下」のチンパンジーにはわかりますが「野生下」のチンパンジーは指さしを用いて他者に意図を伝えたりしたことは一度もなく報告もないそうです。つまり、人にとって大切なことであり、人特有なものなのでしょう。三項関係が成立するということは「人が人と物を介しての融合感」を感じているかどうかだと思います。
 また隔離されて育ったチンパンジー(現在、隔離実験は許されていない)は鏡に映る姿を自分だとわかるような反応は、ほとんど見せなかったそうです 。いかに仲間が大切かということがわかります。人は人と接するという行為を行うことによって人間らしさが生まれるのかもわかりません。
 チンパンジーは二項関係をヒト同様にコミュニケーションをしますが、三項関係を用いてのコミュニケーションは、ほとんどやらないそうです 。乳児のクラスで、お母さんがお迎えに来て、帰る場合お母さんと一緒に、保育者や子どもたちに挨拶をして、手を振ってみたり表現豊かになります。それは9ヶ月頃の三項関係が出るときで、お母さんの表情や態度を伺いながらモノを見つめ行動しようとします。これを社会的参照といい、9ヶ月になると乳児は他者との指さしや共同注視などで対象を共有し、他者と協調して学びとっていく力を獲得します 。この社会的参照がチンパンジーには3歳を過ぎてもしようとしません。つまり、人だけの特長ともいえるようです。

 指さしについて考えてみたいと思います。子どもは10ヶ月ごろになると保育者に何かを伝えたいような仕草があります。おもちゃをとりたかったり、スプーンを持ちたかったりしたときに、保育者に対して、そのことを伝えたいと態度で表現します。子どもは目、手、体全体を使って自分の意図を保育者に伝えようとします。チンパンジーでは、どうでしょう。チンパンジーでも生後8ヶ月ごろになると指さしの形はするようです。でも、それは近くのものをさわるという探索活動のようなものだそうです。チンパンジーは遠くのものを指し示すことはしません。
 しかし、チンパンジーも人間との付き合いの中から、人間の指さしを理解するようになるらしいです。アユムというチンパンジーはだいたい生後1歳半ごろから、自分の背後であっても、はっきりと、その方向を見るそうです 。
 社会的コミュニケーションの発達の道筋がヒトとチンパンジーでは違うということが研究によってわかってきました。二項関係を基盤にしたコミュニケーションはヒト同様するのですが、三項関係になるとほとんどみられないそうです。生後9ヶ月頃に見られる「社会的参照」においてもチンパンジーは3歳過ぎても見られなかったそうです 。
 人は群れて生きる存在ともいわれています。人は昔、狩猟をしていて、一人から何人かで獲物を獲得しようとしてきたのでしょう。チャン・デュク・タオ氏は狩猟をしていく中で、仲間と交通をしていかなくては、ならなくなったというようにいっています。私たちも、もし獲物を見つけたりしたとき「アッ!」とかいって声を出すでしょう。指示言語から始まり、現代のような言語になったともいえます。人は集団、あるいは社会の中で言語を獲得してきました。
 チャン・デュク・タオ氏がアーチ型の指示身振りとは伝えたい人にもちあげられ、それから対象の方へ向かうという二重の形式で表すというようにいっています。普通の一般的な指さしの理解は対象にそのまま指をさす「直線形の指示」です。このように直接の形でなされるのですが、しかし腹が立つときなどは、「おいおい!」と言って当人に向けて肩をたたいたりして、それから対象の方へ指さすことがあります。系統発生において最初にあらわれたのがこのアーチ形の運動であるといっています 。ゴリラは人の手をとって対象物のところへ誘導します(クレーン現象、マジック・ハンド)。これを、身体的接触による「近接性による誘導」といっています。
 チャン・デュク・タオ氏が指示の運動とは{前人の水準においては、叫びが指示の身ぶりを伴うとき、その叫びはまさに対象の意味をとらえている。すなわち、その叫びは、有声言語の原初形態を定義し、対象を労働の対象として、「これ!」と指示する(感嘆の叫び)となる。指示の運動は、それゆえふたつの契機をふくむ。すなわち、身ぶりの契機と感嘆の契機とを。 }と述べています。
 人が指示をするという行為は対象の意味をとらえて「これ!」と叫んで、仲間に伝えようとします。集団生活をすることによって仲間に伝えなければならないことが出てきたのだろうと思います。人が指示をするときは、身ぶりからと一瞬の驚きから出るものなのかもわかりません。
 チャン・デュク・タオ氏は「直線での信号は、ただ対象へとのばされた手の運動の延長上を追う彼の視線をみちびくのである。受け手自体は、そこに十分強力な動機がある場合にだけ、それにむかっておもむけばよいのである。直線の形式は、信号の適用の範囲をいちじるしくひろげ、それ以後は、進行中の労働の対象を指示するばかりでなく、興味を引かれるすべての対象をも、可能な労働の対象として指示することができるようになることがわかる。」とアーチ形の指示に比べて直線の形での指示の方が可能な労働対象者を指示することが出来ると述べています 。
 チャン・デュク・タオ氏はマルクスの資本論から「見ようによっては人間も商品と同じことである。人間は鏡を持ってこの世に生まれてくるものでもなければ、私は私である、というフィヒテ流の哲学者として生まれてくるものでもないから、人間は最初はまず他の人間のなかに自分を映してみるのである。人間ペテロは、彼と同等なものとしての人間パウロに関係することによって、はじめて人間としての自分自身に関係するのである。 」を引用しながら、指示の運動の意識は他の人たちと同じように自分にとっても役立つことになるので、おのおのの主体は、他者たちに信号を送りつつ、同時に、自分自身へもさし向けていることになります。各自、自分自身にさしむけて、人は自分自身と他者たちとが「見る−見られる」という、お互いの主体性から現れる同一体のような状況のようなものかなと思います。また、その関わりにある集団にとっては、この信号を内面化しようとします。したがって、信号は、社会的相互性からなる繰り返しや模倣などで確かめられた形式を獲得すれば、その個人に内面化されていくのでしょう。このことは、社会関係からもたらされてきたともいえます。私にとって指さしは社会性が含まれていて、「主体と主体がモノを介して融合された時」といえると思います。例えば、コロコロと転がるボールを指さして「ボール」と言う時、自分の目の方向で指さします。わざわざ相手の前に行って、相手の目の方向から自分の指をさすことはしないでしょう。自分が見ている方向を相手もわかると思ってさしています。
この前、犬に指さしをしてやったら私の指を見ていましたが、人間は指のさす方向を見るのです。人さし指は、いつから人さし指と名前がついたのでしょう。人間は、ずいぶん前から指さしをしていたのだとわかります。自分が相手と同一のように思って指さしをしているのかもわかりませんね。私は自分と他者の思いが映し出されてこそ物を指し示すということになると考えます。チンパンジーにとっては、三項関係は難しいようです。人間特有のものなので、この期を私は「サルからヒトへの移行期1」としました。
 次に指さしや三項関係、そして社会的参照を見てみましょう。11ヶ月児の子ども二人が保育者と公園へ散歩に行く時、いつも部屋から玄関まで、なかなか来ないけれど、私が散歩カ一を持ってくると、それを見て二人は急に這い這いをしてきました。きっと二人は散歩に行けると思ったのだろうと私は感じました。散歩カーに乗って外へ出ると、家のフェンスに小さな犬の絵が書いた看板があります。その看板を、いつも見ているので、その犬の看板を見て二人は「アーア」と言ったり指さしをして顔を見合わせていました。なんとなく犬の看板を見て、二人の子どもと保育者の三人が共有できた様に感じました。なぜそう感じたのかと自分に問いかけてみると、きっと、いつも見る看板なので、目と目があってニコッと笑いを浮かべたのではないかと感じました。次に、一人を散歩カーから抱っこして犬の看板を見せてあげ、散歩カーにまた乗せ様としたとき足をバタバタさせて怒っていました。その目標物の看板を見ていたかったのです。犬の看板を見て指さしをするのは、きっと仲間に知らせたいからでしょう。三人が近接的に共有できたという融合性が笑いをもたらしたといえます。この時期の子どもは言葉でわかるというより、ものを見るということで感じるのでしょう。かといって言葉は不要といいたいのではありません。そこに保育者と乳児の関わり合いが生まれます。言葉や雰囲気というもので、自分が、やろうとする世界が広がるのでしょう。
 
 描画から見れば、一歳前後なら、点々で表現しだします。肩を軸にして打ちおろすように描き出します。小麦粉粘土でも机の上でとんとんとたたいたりして遊びます。時には口に入れてみたりします。小麦粉の粉をさわったりするのも楽しいと思います。ただ呼吸器系から粉を吸い込むので感触を感じてもらい、水を入れて粘土状にしたほうがいいと思います。
 子どもたちは、やがてつかまり立ちをして一歩二歩と歩き出します。


保育士から讃岐うどん屋へ

自己紹介

子どもの持つ力を信じて 清風堂書店発行 著岡崎英治
「子どもの持つ力を信じて」清風堂書店出版著者岡崎英治  2001年香川県で全国男性保育者研究・交流集会が開催され、実技の「うどん作り」に参加。香川県の「久保」といううどん屋の関連で男性保育士久保さんから学んだのが始まり。25年間の保育園勤務から2008年「うどんの花里を開業。
 「子どもの持つ力を信じて」の書物に保育園でのうどんづり、どろだんごづくりや火起こしの実践も記載しています。乳幼児の発達についても25年間の経験を基に記させていただきました。
 店の後ろに山積みさせていただいております(笑)。「子どもの持つ力を信じて」定価1300円。


保育士からうどん屋へ。うどん店主が幼児保育の本出版「京都新聞」
(京都新聞より)




讃岐うどん店【うどんの花里】  石臼挽き小麦粉を炒って国産小麦粉とブレンド  包丁切り手打ちうどん

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